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体育の日に考える 名称をスポーツの日に

脱・体育を標榜(ひょうぼう)する声が高まっている。スポーツを文化として日本に根付かせるためにも、「体育の日」は「スポーツの日」と改称してはどうか。

体育の日とは、一九六四年の東京五輪にちなんでいる。「スポーツに親しみ、健康な心身をつちかう」ことを趣旨に、同五輪が開会式を行った十月十日を六六年から国民の祝日に制定した。二〇〇〇年からは十月の第二月曜日に定めている。

ただ「体育の日」という名称が、スポーツのあるべき姿と照らし合わせてふさわしいかといえば疑問がある。

◆スポーツは文化

例えば「スポーツを楽しむ」とは言っても、「体育を楽しむ」とはあまり聞いたことがない。同じように「スポーツを見る」はあっても、「体育を見る」という表現はまず使わない。

これは、もともとスポーツが文化として存在しているからだ。人間の心を満たして豊かにする文化は、自らが創り出すこともあれば、他の人が創ったものを見たり、聴いたり、触れたりして楽しむ側面を持つ。

人間が一定のルールの下で自らの肉体と精神力を鍛えて技術を磨き、見ている人に感動や生きる力を与える。それがスポーツであり、音楽や絵画と同様に人類の文化として存在している。

一方、体育という言葉を広辞苑で引くと、次のように書かれている。

「健全な身体の発達を促し、運動能力や健康で安全な生活を営む能力を育成し、人間性を豊かにすることを目的とする教育」

体育とは教育であり、「楽しむ」や「見る」とは違う地平にあることが分かる。そのため、これらの言葉と組み合わせると違和感を覚えてしまう。

◆脱・体育の動き

体育という言葉は、いろいろなところに影響を及ぼしている。その最たるものは「体育館」ではなかろうか。

日本には五万近い体育館があり、九割以上は学校、あるいは自治体の公共施設だ。ただ、その多くはスポーツをすることを目的として建てられ、観客席などスポーツを「見る」ための環境は十分に整っているとは言い難い。

対照的に米国では、どの地方に行っても中学や高校の屋内スポーツ施設では観客席を充実させている。ライバル校同士の試合となれば、選手や学校の関係者だけではなく、地域全体の人たちが地元校を応援するために押し寄せることは珍しくない。スポーツ施設は選手のためだけではなく、地域コミュニティーのつながりを育み、強固にするためにも存在している。

体育という言葉のために日本の施設から「スポーツを見る」という概念が消えてしまっている。そうだとすれば、地域振興の面から考えても、もったいない。

このように、スポーツ文化のあるべき姿を言葉や名称の側面からも検討していく動きは、競技団体からも湧き起こっている。

プロサッカーのJリーグでは、競技場という言葉を使うことを固有名詞を除いて禁止し、「スタジアム」に統一している。サッカーが競技者のためだけにあるのではなく、チームを応援するサポーターらも一体となって存在している考えからという。

また、九月に創設一年目のシーズンが開幕したプロバスケットボールのBリーグは、同じように室内競技場や体育館の総称を、観客席に囲まれた室内競技用の施設を指す「アリーナ」としている。これも脱・体育を目指す動きの一環といえる。

もちろん体育にもプラスの側面はある。体育の授業があるおかげで、民間のスポーツクラブなどに入会しなくても等しく運動する機会が私たちには与えられている。五輪におけるドーピング違反者が日本選手から出ていないのは、体育教育が人としての倫理を育む側面からも機能しているからという人もいる。

ただ、一一年に施行されたスポーツ基本法はスポーツの定義について「世界共通の人類の文化である」とし、その前身のスポーツ振興法で定められていた「運動競技及び身体運動」「心身の健全な発達を図るためにされるもの」という限定的な定義から大きく変わった。その上でスポーツに関する施策の推進は国の責務とし、一五年にはスポーツ庁も設置された。

◆4年後を見つめて

今やスポーツは国としても教育や心身の鍛錬(たんれん)だけを目的とするものではない。四年後の東京五輪を日本の豊かなスポーツ文化を世界に知らしめる大会とするためにも、「体育の日」を「スポーツの日」と改称する必要性はますます高まっている。

Tag(s) : #Asia-Pacific

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